『今昔物語』 吉田治さん(サックスプレイヤー/BATTLE JAZZ BIG BANDリーダー)

■早稲田大学 ハイ・ソサエティ・オーケストラ
1982年 第13回大会出場(優秀賞受賞)
1983年 第14回大会出場(優秀賞受賞)
1984年 第15回大会出場(最優秀賞、最優秀ソリスト賞受賞)
※2009年、第40回大会に寄稿された文章を当時のまま掲載しています。
勘違いは大事!
YAMANO BIG BAND JAZZ CONTEST、40周年、本当におめでとうございます。
ヤマノを卒業して、25年程経ちます。プロ・ミュージシャン歴も24年になります。大学に入ったらジャズをやろうと、意気揚々と九州から出てきた田舎学生の僕は当時、雑誌やテレビでも紹介されていた「ハイソ」に入部して何か特権でも得たかの様な気分でした。それと全ての中心である東京にいるんだという高揚した心持ちで、一人でドキュメンタリーの主人公にでもなったかの様でした。二十歳そこそこの青い自分が恥ずかしいですが、今から思うと純粋でかわいくも思えます。
当時ジャズをやるといってもモダンジャズなんて殆ど聴いた事がなく、全盛だったフュージョンをかじっている程度でした。チャーリー・パーカーもソニー・スティットも知りませんでした。そんな1年生の6月頃、U.C.バークレー大学(バークリー音楽院とは別物)のビッグ・バンドが来日して、大隈講堂でジョイントコンサートをやりました。大して分かっていない自分でも、そのかっこよさには鳥肌がたちました。彼らはまだちょっとした学バンブームが残っている頃だったので、FM放送で演奏したり、テレビ(確か11PM)に出たり、新宿ピットインでライヴをやったり、果てはアルバム一枚録って帰りました。今から思うと、ジャズといってもカリフォルニア的な爽やかでおしゃれな物でした。それでも緻密なアンサンブルに加え、ソロなんかは、憧れのオープンアドリブソロで観客を大いに盛り上げるだけ盛り上げて次のソロイストに渡すなんて夢の様でした。当時の日本の学生ビッグ・バンドの状況では、各バンドにアドリブソロが出来る人は居て一人二人、オープンソロをかっこよく出来る人なんか居たら他大学でもどんなもんか見に行く時代でした。僕は4年で卒業するまでに絶対に、このレベルまでにはならなければと思いました。
時は過ぎて4年生の就職前3月にアメリカ西海岸に演奏旅行に行って、U.C.バークレーでジョイントライヴをやった時に彼らのバンドがレベルダウンしていてびっくりしました。これは自分たちが上手くなったからバークレーが下手に聴こえたのではなく、実際に下手でした。まあよく考えれば音大ではないのでレベルは変動して当たり前です。しかし4年間目標にし続けた「夢の様なバンド」の変わり果てた姿を見て力が抜けました。このバンドがあの実力であの当時に来日してくれた事で勘違いして大きな目標を持つ事が出来て大きなエネルギーになりました。その西海岸演奏旅行では極東の学生バンドが意外に素晴らしいと評判になりました。それを聴いてジャズというアメリカのお家芸危うし!と勘違いしたアメリカ人学生が居たかどうかは分かりませんが、海を越えて影響しあいながら上手になってきたのでは?と思います。その演奏旅行で一番嬉しかったのは、その上手かった当時のオープンアドリブソロで観客を唸らせていたアルトサックスの人がまだ大学院に残っていて僕の演奏を聴いて感動したと言ってくれた事でした。
そんな楽しく思い出深い学生生活を終えるや否や4月から新入社員教育プログラムに放り込まれ、だんだん自分は音楽的に天才かもしれないのにこんな所でこんな事をやっていていいのか!などと自己洗脳し始めて脱サラして見事、バンドマンになれました。根拠はただ一つ、ヤマノで最優秀をとったから!です。審査員の皆様にとても感謝しています。僕に勘違いをする材料を与えて頂いて。
そして今回、この勘違い男の率いる「BATTLE JAZZ BIG BAND」をゲストに呼んで頂いて本当にありがとうございます。僕を含め14人のヤマノ勘違い男が演奏する学生バンドの様に上手いプロの演奏を披露したいと思っています。ヤマノ魂顕在なり!!