『今昔物語』 佐々智樹さん(Dr)

1970年 第1回大会出場
1971年 第2回大会出場
1972年 第3回大会出場
スパイス オブ ライフ レーベルプロデューサー
※2005年、第36回大会に寄稿された文章を当時のまま掲載しています。
気分はまだまだ現役!
私がコンボ/ビッグ・バンド・ジャズの演奏に夢中になっていた学生時代は既に30年以上も前の話しにさかのぼる。私が大学に入学した頃は数々のスターを生んだTBS大学対抗バンド合戦が既に終了、ヤマハのライトミュージック・コンテストがジャズバンドの目標となっていたが、フォーク/ロックの台頭と共にジャズは主役の座を明け渡し、その後世界歌謡祭/ポプコンに移行していくといった時代。実際には大学1年の時にピアノ・トリオでライト・ミュージック・コンテスト全国大会に関東のコンボ・ジャズ代表として参加。その時の総合優勝は早稲田のハイソ。関西のコンボの代表は向井滋春さん率いる同志社モダンジャズ・グループだった。大学2年でライト・ミュージック・ソサエティに入ってから出場したライト・ミュージック・コンテストは彗星のように現れた愛知学院大学スインギング・オール・スターズに総合優勝をさらわれ準優勝に泣いた。資料を見るとその年に第1回山野ビッグ・バンド・フェスティバルがスタートしていて、記念すべき第1回から第3回まで出演させていただいたことになる。僕の記憶ではこのビッグ・バンド・フェスティバル以外にも山野楽器はアマチュア・ビッグ・バンド育成に大変積極的で、アメリカから講師の先生を呼んでジャズ・クリニックを開催したり、森寿男とブルーコーツをゲストに勉強会を開催したりとずいぶんお世話になった思い出がある。
当時はサドメルを脱却して、次の目標探しにずいぶん悩んだ時代。誰も知らないバンドをいち早く見つけて演奏することがライバルとの戦いであったが、サドメルが偉大すぎてそれ以上のバンドがなかなか見つからない。オリジナル作品をメインにするか、4ビートから8ビート主体にするか、ベイシーに戻ろうか?新作を意欲的に発表し始めたウディ・ハーマン、スタン・ケントン、クインシー・ジョーンズに、アマチュアには無理と言われたメイナード・ファーガソン、更にはBST、シカゴ、チェイス等など、いろいろ挑戦してみた時代であった。そんな時に我々がいち早く挑戦したのはケニー・クラーク=フランシス・ボーラン・ビッグ・バンド。中でも「サックス・ノー・エンド」は忘れられない作品。最近やっとCDが復刻され、若いクラブ・ジャズ・ファンの間でも人気を博しているらしいが、そのヨーロッパ・ビッグ・バンドの伝統サウンドが現在のボーヒュースレン・ビッグ・バンドにも脈々と流れているのを発見すると感動してしまう。
今年になって守屋純子オーケストラの新作をリリースする仕事をお手伝いでき、日本を代表する魅力溢れるプレイヤーの演奏を目の当たりにして、眠っていたビッグ・バンド・ジャズへの情熱がふつふつと涌き上がって来る自分に驚いている。
ビッグ・バンドの迫力ある音と圧倒的なドライブ感、アンサンブルの美しさとソロを通した個人技の魅力。ビッグ・バンドの伝統を消さないためにも、このYAMANO BIG BAND JAZZ CONTESTが益々発展し、日本のジャズ界を担うミュージシャンを生み続けるコンテストであり続けて欲しいと願っている。