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『今昔物語』山野楽器スタッフ編 齋藤嘉高さん(Dr)

Light Music Society(OB)
1993年 第24回大会出場(最優秀賞受賞)
※2007年7月寄稿
※現在は退職

私がYBBJCに出場(?)したのは1993年の第24回大会、慶應義塾大学ライト・ミュージック・ソサエティと早稲田大学ハイ・ソサエティ・オーケストラの2バンドが共に最優秀賞という珍しい年のことです。

第24回大会プログラム表紙(1993年)

高校時代からドラムを始めた私は、ジャズに次第に興味を持ち始め、大学に入ったらジャズ系のサークルに入ろうと考えていました。どうにか慶應にまぎれこめた私は、プロのミュージシャンを数多く輩出しているライト・ミュージック・ソサエティに入ってみる事にしました。何といっても人気フュージョン・バンド、カシオペアで活動していた、日本を代表するドラマーである神保彰さんもライトの出身でしたから。しかし、ライトに入るとハードなスケジュールが待ち構えており、特にC年(※1年生の事。業界用語らしく、音階に置き換えて1→C、2→D、3→E、4→Fとなる)は週3回のレギュラー・バンドの雑用係、週2回の自分のいるジュニア・バンド(主にC年、D年)の練習、それに外での演奏の依頼が入る時の搬入・搬出といった仕事の合間を縫って個人練習をするといった、勉強そっちのけの感じに陥っておりました(汗)。

そしていよいよ夏のコンテストで演奏する曲も決まり、本格的に練習を始めてからしばらくしてコンマスが「この曲は、この場所に銅鑼の音があるけど、ドラムのシンバル代用じゃなくてやっぱり本物の銅鑼の音が欲しいなぁ。」と一言。ライトはマニアックな選曲をする伝統があり、この時も難しい曲だったし、銅鑼みたいなフルバンでは使わないような楽器も出てきていたのです。途中のソロではエレキ・ギターがギンギンに弾き倒すところもあったりしたなぁ…。

後日メンバーの一人が自分の出身高校の吹奏楽から銅鑼を借りてくることができ、され誰が叩くんだ?という話になり、私に皆の目線が集中。コンテストの本番、私はバンドのボーヤでドラムの後ろで待機する予定になっていました。楽器に何かトラブルがあったり、譜面が落ちたりしたらすぐに対処できるように。

「ちょうど良いからオマエ叩いてくれ!」

コンテスト当日のステージ。何処からか現れてステージ脇にある銅鑼を一発叩き、また何処かへ消えていった人物がいた、と司会の国府弘子さんもビックリされて、「銅鑼を叩いた人は誰ですか!?」と言われて恥ずかしながら手を上げました。ボーヤで司会にマイクを向けられたのは後にも先にも私くらいではないでしょうか(笑)。

今回こんな珍(?)体験でしたが、コンテストに出場するバンドのメンバー達は並々ならぬ熱意でこのイベントを目指してきます。このコンテストに関わることで、その熱意を感じ取って私達も「ヨッシャ、負けないぞ!」と気合を入れ直すいい機会になるのではないでしょうか。

※2007年7月、山野楽器社内の冊子に寄稿された文章を当時のまま掲載しています。