『今昔物語』山野楽器スタッフ編 和気一成さん(Tp)
専修大学 Green Sounds Orchestra(OB)
1977年 第8回大会出場
1978年 第9回大会出場
※2007年7月寄稿
※現在は退職
1975年4月、私たち新入学生を迎える学内のキャンパスでは、至るところで新入部員獲得のため、各サークルの趣向を凝らしたイベントや半ば強引な勧誘が盛んでした。そんな中、新入生だった私の心を捉えたのが、殆ど生音にもかかわらず圧倒的迫力でせまるビッグ・バンドの公開練習でした。「かっ、かっこいい~!」。吹奏楽の経験もないくせに私はその日のうちにグリーン・サウンズOrch.の部室で入部を希望、練習用のニッカン(!)のトランペットで情けない音を出していたのでした。
当時のYBBJCはまだ黎明期のような時期で、私が入部する前年(第5回大会)から初めてコンテスト形式となっており、出場バンドの技量も現在ほどのハイレベルではなかったと記憶しています。母体であった「ヤマノ・ビッグバンド・サークル」の活動も残っていて、森寿男とブルーコーツのメンバーによるクリニックなども当時の銀座本店ホールで行われていました。これは各パート椅子を並べてのマン・ツー・マン指導で、今考えるとなんと贅沢なことかと改めて思います。
もうひとつ現在との大きな違いは、各バンドの女性メンバーの在籍者数です。当時のビッグ・バンドは、誰が決めた訳でもないのにまさに「男の世界」。女性はといえば稀にピアノを弾いていたり、MCを担当したりというくらいでした。出場メンバーの半数近くが女性となっている最近のプログラムを見ると隔世の感があります。
初心者で入部した私は大きなハンディキャップがありました。少しでも早く上達しようと、講義を受けている時間以外は土日も含め殆ど部室で練習していたように思います。何とか譜面を追えるようになった頃、準レギュラーバンド(2軍)に組み入れられました。この頃は自分の下手さ加減とアンサンブルの難しさを思い知らされる日々でした。
私がレギュラーメンバーとしてYBBJCに出場したのは3、4年生の時です。
それまで2年連続で入賞していた力のある先輩達がごっそり卒業し、新メンバーで臨んだ最初の大会は惨憺たる結果でした。全員が極度の緊張と気負いで、満足のいく演奏が全くできなかったのです。雪辱を期した翌年。
ステージ終了後みんなで「やったー」と笑みがこぼれる程手応えを感じましたが、結果入賞は果たせず。この頃から年々出場バンドのレベルが上がってきたように思います。
私達にとって夏の「ヤマノ」は大きな目標でした。他の学生が夏休みを謳歌している間も目標に向けて合宿をし、わずか2、3曲を朝から夜まで徹底的に反復練習して仕上げます。時には上級生といえども技量が達しなければレギュラーを降りてもらう事もありました。それほど情熱を注ぎ込んだからこそ、今振り返ると本当に貴重な時間を過ごしたのだと思います。あれから約30年、現在のYBBJCはその規模も内外の評価も大きく発展・向上しており喜ばしい限りです。
思えばあの日キャンパスでの公開練習に出会ったことが、4年間の大学生活のみならず山野楽器に入社するその後の私の人生をも決定づけたのでした。
※2007年7月、山野楽器社内の冊子に寄稿された文章を当時のまま掲載しています。