『今昔物語』山野楽器スタッフ編 金子利光(Tb)
明治大学 Big Sounds Society Orchestra(OB)
早稲田大学 ハイソサエティ・オーケストラ(OB)
1995年 第26回大会出場(最優秀賞受賞/明治大学 Big Sounds Society Orchestra)
1996年 第27回大会出場(特別賞受賞/明治大学 Big Sounds Society Orchestra)
1997年 第28回大会出場(最優秀賞受賞/早稲田大学 ハイソサエティ・オーケストラ)
1998年 第29回大会出場(最優秀賞受賞/早稲田大学 ハイソサエティ・オーケストラ)
私の学生生活は正に ”学バン” 一色。朝から晩まで楽器を吹く毎日。時には更に朝まで吹くことも。そんな学バン生活の中でもやはり大きな存在だったのはYBBJCでした。
私は第26、27回、明治大学 ビッグ・サウンズ・ソサエティ・オーケストラ(通称BS)、第28、29回は早稲田大学 ハイ・ソサエティ・オーケストラ(通称ハイソ)として出場しました。
第26回大会プログラム表紙(1995年)
第27回大会プログラム表紙(1996年)
今は公正を期する為に ”トラ” やバンドの掛け持ちなどができなくなっていますが、当時ははっきりとした規制も無かった様で、好きなメンバーのいる、好きな音楽が出来るバンドに所属する風潮がありました。私の知る限り、学生ではない人間やバンドを掛け持ちして出場する人も他のバンドにはいました。私自身、大学1、2年はベイシーサウンドを追求するBSに所属し、4ビートの吹き方を徹底的に叩き込まれ、3、4年はコンテンポラリーな音楽を追い続けるハイソにも所属していました。
私が明治大学生にも関わらず、早稲田のハイソに参加したきっかけは大学3年の春、毎年YBBJCでは優勝圏内、全ての学バン生の憧れだったハイソが解散の危機に陥ったことです。ハイソの練習場だった ”音楽長屋” の取り壊しが決定し、しかもその年のメンバーはジュニア、レギュラー併せて8名という状況でした。そんな中、前から個人的にコンボを組んで営業活動をしたり、大学同士のジョイントライヴなどで交流のあった唯一のハイソの同級生から声を掛けられました。音楽的に相通ずる彼ともビッグ・バンドをやりたかったし、メンバー不足も逆に幸い、自分の好きな音楽を演奏するバンドを創ることが出来るぞという思いでハイソに参加しました。
ハイソに入ってからはやはりメンバー探しの毎日でした。小遣い稼ぎの為にやっていた、個人的なライヴや営業活動の場で声を掛けたり、コンボサークルのセッションに顔を出したりして、どうにかYBBJCの約一ヶ月前に純粋な早稲田生は7名だけというレギュラーメンバーが集まったのを覚えています。それからは皆、個人的な演奏活動をしつつも気分は早稲田生。ハイソの伝統を守り続けようと狭く暑くて汚い ”音楽長屋” に集まり、YBBJC目指して練習に励みました。
そして迎えた第28回YBBJC。結果は解散の危機からは予想も出来なかった最優秀賞。今考えると、各方面からの寄せ集めバンドだっただけに色々な音楽が交わり、互いに影響しあい、個々のレベルもぐんぐん上がっていったのだと思います。
第28回大会プログラム表紙(1997年)
第29回大会プログラム表紙(1998年)
それからのハイソは ”音楽長屋” が取り壊され、YBBJCには優勝しつつもバンドの財政は苦しい状況。リサイタルを開催する為(皆、個人的な小遣い欲しさもあった筈ですが)、賞金のかかったコンテストに出場したり、パチンコでバンド資金を増やしたり、皆で営業してギャラの出る仕事を取ってきたり、と演奏以外の場でもハイソどっぷりの生活でした。最終的には国内外の演奏旅行をしたり、多くのミュージシャンと共演したりして、皆、音楽的にも人間的にも成長していったと思います。当時のレギュラーメンバーの殆どが留年や中退しながらもプロミュージシャンとなっていきました。私をハイソに誘ってくれた同級生も今はアメリカに渡り、世界の学バンの頂点ノーステキサス大学の ”ワンオクロック・ラブ・バンド” のメンバーとして活躍しています。
YBBJCが無ければこの様な有意義な学生生活は送れなか1った筈ですし、学バン出身のミュージシャンもこんなにも多くはいなかったと思います。YBBJCは日本の音楽シーンに少なからず影響しているのではないでしょうか。改めてYBBJCの存在意義を感じます。
一会社員となった私は、今後も山野楽器の社員としてプロ・アマ問わずYBBJCが輩出した演奏家達のバックアップをしていきます。
※2007年7月、山野楽器社内の冊子に寄稿された文章を当時のまま掲載しています。